電験三種 受験 エンスト

電験の勉強を始めて、早くも数ヶ月が経った。ふと立ち止まって考えたい。

 

山ん中でひっそりと佇む空き家にいるように引きこもっている、薄暗く、寒い。自らの首も曲がって俯き加減で、鴉が水やゴミを漁る姿と重なってくる。

 

頭悪いな自分。

 

誰かは言った。

「思考は現実化する」と。そんな言葉が自分の頭の中を巡って、本当に現実化するのだろうかと想起する。

 

暗闇の中を進むには、灯りがいる。

心より必要だと気付いた時に、理解は深まる。

なにもないところから灯りをどうやって生み出し、維持する方法を思いついたのか。疑問から希望へ、そして文明は火を本当に理解した。

故に進化して霊長類最強となった。

最強かどうかはどうやってわかるのか。

なにがあればつよく、なにがあれば上位になれるのか。言葉は最強というランク〔枠組〕をつくりだすが、言葉を持ってしても最強という事実を証明することはできない。

人間が厳密な意味で空を飛ぶことができないように、明確な限界〔天井〕がある。

 

今思えば、勉強初めは、興味本位であった。それがパンドラの箱であるともしらず、怖さもなく、漫然としていた。

さながらオートマトンように。

 

いつしか、分野の深さと広さを知って身に感じる怖さと焦燥感が生まれた。

勉強を続けるあたり、知らないことを知ることで、広がりと深海さながら暗闇が広がってくる。

次第に疑心暗鬼、あれも、これも、自分は知らない。怖いもの知らずというのは、広がりを知らないことだ=知らなければ本当の怖さは理解できない。

知らないという薄っぺらい言葉の壁の中で、身をかがめて身を守る亀のようになって虚勢をはる。

知れば知るほど範囲や広さの明確な分けがくっきりし、今までは鳥籠に捕らえられた鳥のように、餌の周りを決められた範囲で飛び回っていただけであったということを知る。

 

現実は目の前にある!誰がなんといおうと時間は巻き戻せない、実存するために生きる必要があって、自分を自分たらしめるのは思い込みという感覚でしか、証明できない。昨日の自分と今日の自分が全く同じであると感覚以外に証明できるのか。

 

インプット→インプット→インプット→✖️いざやってきて思うのは、若いうちに仕留めなければという思い込みは正解だったのだろうか。

道は半ば、砂利または泥濘みであるが道は続いているように感じる。想像できる。

思考が回転する。 

自分が不要と思えば間違いない取得できないが、自分が有用、欲しいと思えば未来はいつ生起するかはわからないが、必ず実現している自分の姿が想像できうる。

想像が先で実現が後であるならば、実現することを想像している自分が時間的に先にいなければならない。

とまあ無限に堂々めぐりである。

これで未来はいつ始まると言えるのか。

想像した瞬間から未来は始まって、いつからが過去となるのか。

 

電験とはそれほど楽しくも怖くも高くもある。

 

イワン「神なぞ、いるものか。ならばこの現実、空虚な世界を一瞬にして変えれるのだろう。変えれないということは、それこそ神がいない証拠ではないのか、、ああ神よ、存在してくれるなよ。現実を変えるのは己自身なのだなら。」

 

邂逅